はじめまして。元スロプロのヒロ(40代)と申します。
1998年ごろから途中止めていた期間もありますが2010年ごろまでの約12年間
パチスロを打つことにより日銭を稼ぐいわゆるスロプロというものをなりわいにしておりました。
現役当時 いい時は年間収支が1000万を超えた年も何年かありました。
他のスロプロの方の収支を詳しく聞いたことがないのでこの数字がどのくらいのものなのか
よくわかりませんがそこそこ稼げていた方ではないかと思います。
(僕より稼いでいた人はたくさんいましたけどねw)
ですがいい時代はいつまでも続くわけでもありませんでした。
パチンコ店のイベントの自粛やパチスロ台が5号機の中期以降から期待収支の低下や設定判別の困難化するなど様々な理由でこのままスロプロで安定した収入を出し続けていくのは困難だと思い引退することにしました。
その後何とか職を探し今はしがないサラリーマンをしております。
このブログはそんな僕がその時代を駆け抜けて生きたあかしとしての記録です。
主にスロプロ時代に打ったパチスロの4号機~5号機前半の懐かしの名機(迷機?)のデータや挙動を交えてに独断と偏見で点数をつけその台について思うことを拙い文章でつづります。
知っている方には懐かしんでもらったり
知らない方にはそんな台もあったのかーなど思っていただいたり
自分でも思い出に浸りたい(主な理由ですが)と思い立ち上げました。
僕とパチスロとの出会い
僕には高校以来の友人がいます。
仮にTとしておきます。
Tは東京の大学に通いながら毎日のようにパチスロにいそしんでおりました。
彼は毎晩のように僕に電話をしてきて
パチスロのあれで勝ったこれで勝ったと勝利報告をしてきました。
そのころの僕はパチスロは打ったことがなく
休みの日にパチンコを趣味で打つ程度で当然負けてました。
だからそんなに毎日勝てるわけないだろうとその時は話半分で聞いておりました。
彼は大学の学費も自分で稼いで払っていると聞いて
まじか・・・そんなに勝てるなら俺も!
とパチスロを打ってみようと思い立ちました。
1996年の春でした。
初めてのパチスロは山佐のニューパルサー
ある田舎のパチンコ店。
いつもは手前のパチンココーナーで遊ぶのですがその日は奥のパチスロコーナーへ。
そこの常連と思しきおじさんたちがじろじろ見てすごく肩身が狭い。
まずコインの貸り方も知らないのでどこにお金を入れればいいのかわからずきょろきょろ。やっとコインサンドを見つけてまたぎょっとなります。
1000円・・・だと・・
パチンコは100円から打てるのに対しスロットは1000円からしか打てない。
そのことに衝撃をうけました。
でも意を決してコインサンドに1000円を投入。早速打ち始めます。
初めて打った機種は山佐のニューパルサー(緑)でした。
手持ちの3000円が10分もしないうちにあっという間になくなりまたショックを受けます。
当時パチンコしか打たなかった僕にとってはコインがなくなるのがあっという間でスロットというものに恐怖しました。
さらにパチンコと違って当たってるのか当たってないのか全く分からない・・・
初打ちなので当然リーチ目もわかりません。
もちろん目押しもできません。
今でこそこのニューパルサーは告知ランプがついていて初心者でもわかる仕様ですが当時の台は当たってるかどうかはリーチ目に気づいて自分で揃えないといけませんでした。
当たってるか分からない台を打ち続けるのが怖くなってその場を逃げ去りました。
3000円負けでしたがものすごく負けた気分で苦々しいデビュー戦となりました。
パチスロは勉強しないと勝てないを知る
当たってるか全然わからないしすぐお金なくなる!こわっ!
第一印象は最悪でしたwでも自然とあきらめるという気持ちにはなりませんでした。
Tのように勝ちたい!という一心でパチスロの勉強を始めました。
それからはTにパチスロのことを詳しく聞きまくりました。
そしてパチスロは情報が最重要だと悟りました。
当時店側が教えてくれる情報は台に付いているリーチ目シールくらいなもんでそれ以外はほとんど告知してないのが当たり前。今考えるとかなりひどいですよねw
でも当時はそれが当たり前でお客が知識がなしで打つのを前提とした機械割や設定配分でした。なにも知らないで打つということはまさにカモがネギしょってる状態なんです。
勝ちたかったら事前に予習してこなければいけなかったんです。
さらに僕の地域は交換率も等価交換なんてほとんどお目にかかれずほとんどのお店が7枚交換が普通でした。これも今考えると相当なぼったくりでしたw
その後右往左往ありましたがこれが僕のスロプロ人生の起源となる第一歩となりました。